滋賀県中小企業家同友会 事務局
『資本論』学習会第2回まとめ
2021年2月2日
文責 奥村祐三
1)読んだ箇所 ― 『資本論』第1章商品 第1節の半分
2)注意点
書物、とくに科学に関する書籍を読むためには、読み手の忍耐が求められる。というのも、
科学的な著作は、その著作が導いた結果と同時に、結果に至るための「方法」についても検
証しなければならないからである。たとえば、物理学に関する論文を読む際には、その論文
が明らかにした科学的事実とともに、どのような方法(実験)を用いてその結論を導いたか
を明示しなければならない。最近の事例では、STAP細胞について定義づけた論文をめぐる
騒動では、STAP細胞の存在は確認されたが、それを導くための方法に不正があり、さら
に、その方法を用いても論文執筆者以外にはSTAP細胞を生み出すことができなかった。
いくら結論を述べ立ててもその結論に至るまでの必然性を示さなければ、それは科学では
ないと評されるのである。
その理は、社会の科学である経済学においても同様である。『資本論』は、資本制生産様
式を自然法則として扱い、そのあり方、運動を科学的に証明するものであるため、マルクス
も当然のことながら「方法」に従って『資本論』を書いている。しかし、一般に経済という
ものは、社会生活においては自明のものであるため、経済を科学することは、日常的に縁遠
い細胞や化学物質を扱うよりも簡単そうに思われるし、また、経済がなんであるかは、人間
とって「わかりきっていること」をうまく整理してしまえばわかるものだ、という思い込み
がある。
『資本論』を読む際に、多くの学習者が言葉の森に迷い込むのは、経済が「わかっている
こと」として前提してしまい、たとえば交換価値を読むときに「貨幣」を先取りしてイメー
ジしてしまうことにある。たしかに、交換価値を読み解く際に貨幣価値をイメージすると、
理解はスムーズになる。しかし、ここで考えるべきは、貨幣価値を想定すれば交換価値を理
解しやすいのに、なぜマルクスは交換価値とはなにか、そして、交換価値の等式とはなにか
を検討する際に、「貨幣価値」を例えとして使わなかったのか?という点である。それはな
により、貨幣価値は、本質は交換価値であり交換価値が発展して初めて貨幣価値となるので
あるから、貨幣価値を前提にすることはできないからである。
以上のような考え方を踏まえて、『資本論』を読まなければならない。
3)まとめ
①『資本論』の分析はなぜ「商品」の分析からはじまるのか?
-「資本制生産様式が支配的な社会においては、社会の富は『一つの巨大な商品の集まり』
として現れ」るから。
【ポイント】
「社会の富」とは、たとえばお米であったり、肉であったり、鉄であったり、木であっ
たりといった人間の生存において必要な物質である。むろん、発展した社会においては、
富といえば貨幣を想定してしまうところであるが、私たちが目に見て取ることができ
る富は物質だけであり、かつ、人間にとって有益な物質は多くのものが、「商品」とし
て現れている。
ここでマルクスが分析の念頭においているのは、「見えているもの」そのものである。たしかに、商品はたとえば製造機械であれば生産プロセスにおいて「資本」として扱われるのであるし、また、金は「貨幣」という役割を担う物である。しかし、あくまでも
ここではそのような「先取り」はまず排除して、純粋に私たちの生存を支える物を見回すと、それらは「商品」である。
ここでの「商品」は、「現象しているあるがままの」商品である。この文章を打って
いるパソコンはPCショップで買ってきた「商品」である。お茶碗も自分で作ったので
はなく、商品である。さらに、『資本論』についても、Amazonから買ってきた商品
である。そのように、ふと「現象学的判断停止(エポケー)」という視座で周りを眺め
やれば、生産諸関係はどうであれ、人間の生存に必要なものの多くは「商品」として現れている。
「商品」は、経済学的な分析が進めば商品と商品との関係が「貨幣」関係になることもあるし、貨幣と商品との関係(これは商品と商品との関係の発展型であるが)が資本と
なることが明らかになるが、ここでは、そこまでの先取りは求められていない。
とりもなおさず、マルクスの「方法」に耳を傾け、その「方法」とおりに考えてみることができるかどうかが、『資本論』を理解できるかどうかの要である。
②使用価値とはなにか?
「ある物が有用であるとき、その物は使用価値を持つといわれる」(p.28)
=物(自然物)が持つ人間にとっての有用性がまず想定される。人間が生存するためには、
なによりも食べることができなければならないので、その対象である食物が有用な物で
ある。また、着ることができなければならないから、毛皮、布も有用なものである。さら
に、住むこともできなければならないから、木材や切り石も有用物である。
使用価値は自然物の有用性なのであるから、それには「質」と「量」という側面を持つ。
鉄は、人間が誕生する前から性質と量を持っていた。人間が鉄に有用性を見出したのは、
人間が鉄の性質を愛したからであり、また、それが一定の量(重さ、幅)を持っていたか
らである。鉄は必ず重さを持つ、という純粋物理学の規定と同じように、経済学において
は、「有用な物はかならず有用性と有用であるのに十分な量をもつ」ということは、原理である。
それらの人間にとっての有用な物質のもつ「有用性」が、ここでは「使用価値」と言い
換えられている。ここで「有用物」をあえて「使用価値」と言い換えたのは、『資本論』の分析は「使用価値」⇒「交換価値」⇒「貨幣価値」へと進むのであるが、その論理展開にあわせるために、「有用性」を「使用価値」というように「価値」の一種としたものと思われる。数学でいうと、0の2乗=1と置くようなものである。
使用価値は、物の有用性の言い換えであるから、それは超歴史的なものであり、人間の
歴史と同じだけ古い。自然物の性質が人間にとって「有用である」という人間による価値判断に基づく「価値」であるから、原始時代から現代にいたるまで、「使用価値」は存在している。猫にとって「鉄」が使用価値を有するかは疑問であるが、「珈琲」が使用価値がないというのは明白である。
であるからして、どの社会においても「使用価値」は必ず存在するものであるが、しかし「資本制的生産様式」においては、使用価値は「交換価値の担い手」という重要な役割も有している。
②交換価値とはなにか?
「量的な関係」「ある種の使用価値が別の種類の使用価値とどのような比率で交換される
かを示すもの」である。交換価値をこのように定義するために、物の有用性を「使用価値」
として措定しておかなければならなかった。
交換価値は次のように現れる。
小麦1kg=靴墨100g、小麦1kg=金0.1g
これを数学的な等式として「見て取り」、等式を交換すると次のことも言える。
靴墨100g=金0.1グラム
ここで注意が必要である。この等式は、単に「事実」だけを述べたものである。マルク
スがあらかじめ小麦1kgと靴墨100g、金0.1gのドイツでの市場価格を調べて、
等式として表現したわけではない。なぜなら、その必然性はまだ述べられていないからで
ある。あくまでも、ここで述べられている交換等式は「偶然的なもの」「きまぐれで対置
されたもの」である。多くの人が見誤るのは、ここに「貨幣価値」を挿入するからである。
それは資本制生産様式が高度に発展した私たちが、あまりにも貨幣価値に慣れすぎてい
るため、おもわず貨幣価値で理解しようとしてしまう「クセ」である。しかし、マルクス
はまだ貨幣価値とは言っていない。もし貨幣価値と言えるのであれば、マルクスは苦労し
なかったであろう。『資本論』は科学的手法を用いている。論述を論理的に読み解き、理
解しなければならない。
さて、小麦1kgは、靴墨100gや金0.1gと交換される交換価値(交換する価値がある)を有しているのであるから、交換価値は、交換される商品ごとに多種多様であるように見える。しかし、上の等式をみれば、小麦1kgと靴墨100g、金0.1gが等しいとすれば、それは何らかの価値(第三者X)とそれぞれ等しいからだ、ということが必然的に言えそうである。
濃度10%の食塩水100ミリリットルと、濃度5%の食塩水200ミリリットルとが等しいというとき、その等しさは、食塩5ミリグラムという「第三者」と等しいからである。
③ 第三者Xの正体とは?
小麦1Kgと、靴墨100gとは共通の実体Xを、同じ分だけ含んでいる。だからこそ、
「=」で結ぶことができる。しかし、では小麦と靴墨とは全く異なる物であるのに、どう
して「=」で結ぶことができるのか?
先にも述べたことであるが、ここで先を焦ってはならない。マルクスの言っていること以
上のことを読み取ってはならない。この等しさがなぜであるかを考えるときに、私たち現代
社会人は、高度に発展した資本制生産様式における「価値」を想定してしまいがちである。
たとえば、小麦1Kgと靴墨100gが交換できるのは、それらが同じ「1,000円」であるか
ら、という想定である。『資本論』を読み進めていけば、その想定があながち誤っていない
ことが判明する。しかし、ここでマルクスは、決して「貨幣価値」が等しいから、とは言っ
ていないのである。といのも、ここでの課題は、貨幣価値がどうして貨幣価値であるのか、
ということを立証することだからである。立証されるべきものを前提してはならない。
さて、ではそうして小麦1Kgと靴墨100gは「=」なのか。ここで考察すべきは、
小麦と靴墨とは、全く違うものであるということである。小麦の使用価値と、靴墨の使用価
値は全く異なっている。同じように、小麦と靴墨とは、物質としても全くことなるものであ
る。それなのに、小麦と靴墨が交換関係に入る(=交換価値)やいなや、「=」で結ばれる。
では、小麦と靴墨とに共通するものを探してみよう。しかし、物質を考察しても、それが
単に相異なる「物」であることしかわからない。ところが、それらは「=」で結ばれるので
ある。ここで、マルクスが第1章第1節の冒頭で言っていることを思い出す。「商品」の分
析を、この章では論じているのであった。ということは、小麦も靴墨も、「商品」という共
通属性を持っているはずである。では、「商品」とは何であろうか?商品とはとりもなおさ
ず市場から購入してきたものである。それは、犬や猫のように自然に存在するものをとって
きただけではない。犬や猫ならば、そのままとってきただけ食べてしまうであろう。人間は、
自然からとってきたものそのもの、または自然からとってきたものを加工して消費する。し
かも、自分に必要な分以上を他者のために、交換するために生産するのである。商品とは、
まさにそのように生産された有用物である。
そうすると、商品たちの共通属性は、「人間の手を介している」ということ、すなわち「生
産活動=労働」によって現れたものだということになる。
その理解をさらに進めよう。小麦という物質が生まれるためには、小麦を生み出すために
必要な労働が必要である。土を耕し、水や肥料で土を肥し、種を播き、草を取ってやり、実
った麦を刈り取り、脱穀して袋詰めする。他方で、靴墨という物質を生み出すためには蝋を
回収してきたり、油脂成分を回収したり、色を出す顔料をとってきたりする。そしてそれら
を加熱してこねてかき混ぜ一体化させ、缶に封入する労働を要する。それぞれ、そのような
「具体的労働」によって具体的な有用性をもつ「使用価値」が生じるのである。
さすれば、商品が労働生産物であるとしても、それは具体的な有用性をもつためには、有
用性を生み出す具体的な労働(=人間の営為)が必要である。商品は、自然物とは異なり、
人間にとって有用な物であり、そしてそれは人間が作り出したものである。この点で、単に
自然界に存在する物とは異なる。
さて、具体的な性質である使用価値を生み出すのは、具体的な使用価値を生み出す労働で
ある。それを、「有用労働」というとする。
さて、小麦と靴墨が「=」でむすばれるその「等しさ」は、物質的なものではないと
したら社会的なものであると考え、では小麦を生み出す労働と、靴墨を生み出す労働とが
「等しさ」であるかといえば、先にみたように有用労働の結果は具体的な使用価値なのであ
るから、「等しさ」の原因ではありえない。
そこで、マルクスはさらに「抽象化」をすすめて、有用労働A=有用労働Bの「等しさ」
を分析し、それは「人間労働」ということを導いた。小麦と靴墨とは物理的に等しくあり得
ない。それで社会的な等しさを考察して商品が有用な労働の産物だと見てとったが、しか
し有用性を生み出す労働は異なるものであり、「等しさ」をもたらすものではないと考えた。
そして、そこからさらに抽象化をして有用労働と有用労働の共通項である「人間労働」を導
き出した。
そして、この「人間労働」こそが、価値の正体であるというのである。
4)次回 ⇒「価値」の実体について
2021年2月15日18:00~19:00 『資本論』第1章第1節つづき @同友会事務局