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2月4日  「あらためて学ぶ資本主義経済の仕組み」第3回を開催しました。

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『資本論』学習会第3回まとめ

                      2021年2月4日

文責 奥村祐三

1)読んだ箇所 ― 『資本論』第1章商品 第1節人間労働の凝縮物


2)ポイント

「この〈共通なもの〉は、商品の幾何学的な特性でも、物理的な特性でも、化学的な特性でも、その他の自然の特性でもありえない。」(p.31)

『資本論』のこの箇所で想定している「商品」は、これまでの論述から「有用物」、すなわち人間の欲望を充足する物、である。たとえば、小麦であれば、食べることで食欲をみたす。また、ダイアモンドであれば精神的な欲求(それは人間以外の動物ではおよそ抱かない欲求である)を充足する物である。有用であるためには、自然的な身体を有している。すなわち、手で触ることができるなど、感性で捉えることができる物体である。そして、「商品」である以上は、それらは交換されている、ということが前提されなければならない。『資本論』の考察がまず資本制生産様式が支配的な社会においては「財」が商品の膨大な集積として現れる事実から、素直に「商品」を対象として分析がスタートしたのであった。

次に、商品は有用なものであると同時に、交換されるものである。交換されるとき、物体Aとそれと異なる物体Bとが交換される。物体Aと物体Aとは交換されない。そして、交換される際には、例えば物体A100gと物体B1kgのように、それぞれの物体の有用性が発揮されるためのいわゆる「有用量」も前提となる。

さて、ではなぜ異なる物体A,Bが「等しいもの」として交換されるのだろうか。物体A,Bは質的に全く異なる物体である。鉄とダイアモンドの共通性ということは、鉄やダイアモンドをどうこね繰り返しても出てこない。しかし人間は、鉄一定量とダイアモンド一定量を交換する。

とすれば、それらが等しいといわれる原因は、自然的なものではありえない。社会的なものである。そうすると、商品は人間労働の生産物であるという共通点があることがわかる。しかし、人間労働にも二つの側面がある。一つは、有用物の有用性を生み出す「有用労働」あるいは「具体的労働」である。たとえば織物であれば、織物は自然に木にぶら下がっているのではないので、糸を織機で織るという労働があってはじめて織物としてある。織物の原因は人間の有用物を生み出す「織物を織る」という目的をもった働きの結果である。他方で、労働の二つ目の側面は、「単なる人間労働の支出」である、ということである。それは、

「人間のさまざまな労働がどのような形態で行われたかはまったくかかわりなく、たんに無差別に行使された人間労働の凝縮物という幻想的な実態にすぎない」。

つまり、有用物を生み出す原因である人間労働である「有用労働」は、それが具体的な有用物を生み出す以上は商品同士の交換における「等しさ」の理由になりえない。鉄の有用性を生み出す労働と、小麦の有用物を生み出す労働とは、全く異なる労働である。しかし、交換される商品の「等しさ」は商品たちの物理的な、化学的な、その他いかなる自然的性質なのではないのだから、人間労働の支出でしかありえない。そしてその人間労働は、有用物を生み出す具体的な有用労働ではない。

そうすると、商品同士の等しさは、人間労働のさらに抽象的な側面、すなわち「人間労働の生産物」ということに求めざるを得ない。

 

②価値の実体

ここまで、マルクスは商品を分析して使用価値を規定し、次に交換価値を規定し、おぼろげながら交換価値の実体Xはなんであろうか、という論点を出した。二つの商品が交換されるという現象を考察すると、交換される2つの商品のうちにおなじ実体Xが含まれていて、それぞれの商品が一定量あれば、X=Xとなって交換される(交換に値する)。

ではその実体Xとは何かを考えると、自然的性質ではありえない。そうすると、商品の社会的性質しかなく、それは人間の労働生産物である、という性質しか考えられない。では労働を考えてみれば、労働には2つの側面があって、有用物=使用価値を生み出す労働である有用労働と、そこからさらに抽象化された「人間労働力の単なる支出」が、商品の価値実体Xの正体であることが分かった。

ここまでの考察は、「実体」についての考察である。商品の価値は、もし深く考えずに考えるならば、商品の物的性質から生じているように思ってしまう。この思い込みが進化すれば、やがて「貨幣」は「貨幣」自体が価値を持っているかのように思い込んでしまうし、実際、私たちの日常生活においては、その思い込みがまかり通っている。

しかし、商品の価値を考察すれば、価値というものは商品が交換関係にたつことで初めて生じるものであることがわかる。つまり、価値の実体は、商品の交換関係を前提としなければありえないものである。これを近代ドイツ哲学者ヘーゲルの言葉を用いれば、商品価値の実体は「それだけである」のではない。商品価値の実体は、ある商品A(或る物)と他の商品B(他の物)の関係に入ることに媒介されて生じる。それゆえ、ある商品Aが他の商品Bと交換されるというAの運動によるBとの交換関係への推移が、商品価値の存立要件(エレメント)であり、その運動と関係の結果として商品価値の実体が生じてくるのである。この点の詳細は『資本論』第1章第3節価値形態論で詳細される。

 

③ 実体と形態

ここで、『資本論』本文から逸脱して、哲学的考え方について触れる。
あらゆる「ことがら(=認識の対象)」は、実体と形態をともなうと仮定すると「ことがら」のより深く理解できるし、また一見ではわからないことを見つけることができる。たとえば、リンゴについて、私たちはそれが何であるかを知ってはいるが、リンゴについて即時的に知りえるわけではない。リンゴの見た目、触感、味、香りなどの感覚(=人間の感覚器官に物質が触れることで生じる現象)を経て「リンゴ」という実体を理解している。リンゴという実体は、自然のうちにあるがまま存在している。これは、「私」や人類が生まれる前から存在していた厳然たる事実であり、人間がいくらリンゴの生い立ちを夢想しようとも、変えることはできない。リンゴがなんであるかは、人類の歩みの中で見出されたものであり、それゆえに、私たちがいま食べているリンゴは、人類何千年の歴史の結果である。

人格についても同じである。ある人がどんな人であるかは、その人の在り方や振る舞いといった現象しか知りえない。それは、他人から見たときもそうであるし、また、自分自身について考察した時もそうである。人は、おおよそ自分のこころはわかっているものだと思い込んでいる。しかし、自分は自分に対する現象であるにすぎず、本当に自分が何であるか(=自己の実体)は単純に知られることはない。20歳の時にこれが自分だ(=これが自分の実体だ)とおもっていたことが、40歳の自分にも妥当するだろうか。もし、40歳の人が20歳の時の自分というものを守り通そうとするならば、40歳の自分という実体と20歳の自分という幻想の間で苦しむこととなるであろう。

3)次回

2021年2月末から3月前半

テーマ:「価値の大きさ」