滋賀県中小企業家同友会

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【更新】2018年11月20日 湖南支部BIG例会を開催いたしました

湖南支部 例会レポート

2018年11月20日、ホテルボストンプラザ草津において、湖南支部11月BIG例会を開催いたしました。
香川県中小企業家同友会から徳武産業株式会社取締役会長の十河孝男さんにお越しいただき、ご報告いただきました。96名のご参加がありました。

【会社概要】 徳武産業株式会社
所在地/香川県さぬき市大川町富田西3007
創業/1957年 資本金/1000万円
売上高/24億81百万円 (2018年7月) 従業員数/73名(2018年10月)事業内容/高齢者用ケアシューズ、ルームシューズ等の企画・製造・販売
【ご報告の概要】
「同友会の学びの場というのは、経営者としての学びの場としては最高の場だと思います。私もJCを卒業して2年たって入会したのですが、想定していたよりも高次元で経営をされている先輩もおられましたし、厳しく教えていただきました。なにより、ライバルの存在がありました。自社で仕事をしていても、「もう帰りたいけどあいつががんばっているからもう少しがんばろう」と思っていました。経営者として人間力をどう高めていくか。愚直に頑張ってまいりました。同友会は、私にとって「人生の経営道場」であったと思います。」

―今後、日本の人口が減っていき、そのうえ高齢化率が高まることを踏まえて

「時代の変化にきちんとあわせていくということがとても大切なことではないかなと思います。では何をしていかないといけないか。やはり変えていかないいけないと思います。イノベーションをすることがとても大切だと私は思っております。徳武産業は、昨年創業60周年を迎えて今は61年目なんですけれど、昔からいわれている企業30年説からすると、2回つぶれていても仕方がない会社なんですけれども、何度もイノベーションをしています。」

―先代社長が農業から手袋工場を立ち上げましたが、暖冬の影響により売上が上下することがわかりました。そこから、先代社長は売上が安定しているスリッパ製造へシフトチェンジします。しかし、製造環境の過酷さと売上の低さから、靴製造大手からの仕事をするようになりました。

「1959年の正月に先代が家にやってきまして、娘と結婚してもらったときはスリッパをしていて劣悪な環境でとても継いでくれとはいえなかった。けれども、いろんなことがあって今では大手企業さんと立派な会社と取引ができてるんや、おかげさまでちゃんとした利益も出るようになったんや、なんとかうちの後を継いでくれないかという話をいただきました。いろいろありましたが、そのお話に、私は「わかりました。でも手袋会社のナンバーツーをしているので2年間だけ待ってくれないか」とお願いしましたら、いいよとおっしゃっていただきました。ただ、引越しはしてくれということで、引越しをしました。それが1959年5月の末でした。先代は満面の笑みで私たちの引越しの手伝いをしてくれました。それから親戚、知人、近隣の方に「跡継ぎが出来たんや」と話してまわってまして、すごく喜んでくれました。親孝行ができたのではなかろうかと思うくらいうれしかったです。突然なことは世の中に起きるんですね。それからたった20日後、私たちが引っ越したたった20日後にとても元気だった先代が心筋梗塞で倒れました。その5日後になくなりました。」

―先代社長の急逝により、引継ぎもなく社長に就任されたました。しかし、先代社長が大手との取引を確立してくれていたおかげで、経営は安定していました。95%は大手で、5%はスリッパ製造をされていました。

「『このビジネス面白いな』と言いましたときに、妻の母親とか幹部社員たちから「そんなんたいしたことない、うちの父ちゃんが道楽ではじめたようなもんやからやめたかったらやめたらええよ」といわれたんですけど、私は『これが一番大事なことやと思います』というようにいいました。雇用もするし、増やしていきたいと言いましたら、「すきなようにしぃ、大手の仕事は十数年間やっているんで全然問題ないのでそうしなさい」といってくれたので、その方面でやるようにしました。」

―しかし、大手からいただいていた仕事が、中国工場の建設により4年後にはゼロになるということになりました。同業の方は突然の宣告に混乱しました。しかし、十河会長はある程度は想定していました。5%の製造の仕事がありました。

「そのときに私の会社の社員はなんと言ったかといいますと、『社長は先を見る目がありましたな』と、前はボロクソに言っていたのが、そう言ってくれました。初めて認め合えたような気がしました。」
「そのときは15パーセントくらいの売上にしていました。お急ぎで旅行用スリッパとシューズとポーチの3つを、OEMですけれどもひたすら頑張ってやりました。7年くらいしたらなんとか格好がつくようになりました。私の会社の最大のお客様は通販会社でした。旅行会社よりも通販会社がもっと大きかったんです。約40%を一社で占める会社がありました。日の出の勢いの会社でした。そういう会社とめぐり合って取引を始めたんですけど、その担当の方がべた褒めで自社の商品を評価していただきました。」

―しかし、取引会社の担当者が替わることになり、取引にも大きな変化がやってきます。

「課長の第一声が『社長、前の課長とは僕は違いますよ』と。『僕は僕の路線で行って、変化をさせていきたいのでよろしく頼むね』といわれたときに、嫌な予感がしたんですけれども、まさしくそのとおりで、商品の提案をしたときに『これは今風ではないでしょう、ダメでしょう』と。何を提案しても話しになりませんでした。今までの課長でしたら『さすが徳武さん、いいもの持ってきてくれますね、私もこんなものがほしかったんです』と言ってくれてたのですが、何度もっていってもだめ。」
「最後やからと社員一丸気合を入れてサンプルをつくってもっていったときに、課長がその商品を見て『徳武さんとこはこの程度の商品しかつくれないんですか』とそのサンプルをパッと投げたんです。本当に悔しかったです。このやろうと思いましたけど、売上の40%を占める会社ですので喧嘩をして帰るわけにも行きませんので。私と一緒に行っていた企画の担当者、寝ずにがんばった人が目を真っ赤にしてぼろぼろ泣いていました。よっぽど悔しかったんだろうと。私が悔しいくらいですからもっと悔しかったはずです。」

―大手からのOEMの限界を感じた十河会長は、自社ブランドの開発へ取り組みます。そこへ、高齢者施設を経営している古くからの知人から、「お年寄りが転ばない靴をつくってくれないか」という話がきました。

「私の会社もOEMをやめようと決めていましたので、これしかないやろ、この山キツイやろうなと思いながらもしょうがない、挑戦しようということで、始めました。いろんな高齢者施設を訪ねていってみましたら、いろんな人がいるんですね。どんなことで困っているかお聞きしたら、あんなことこんなこといっぱい、山のように出てきます。徳武産業には靴の技術がないものですから、神戸から技術者に来てもらって技術を教えてもらっていました。」

―利用者の要望を聞くうちに、足の大きさが左右異なっているのに、同じサイズの靴を無理してはいたり、2足買ってはいている実態がわかってきました。

「『お願いがあるんやけど、右左サイズ違いをつくってください』と言われました。まったくの想定外でした。右と左サイズが違うといっても、人によって大きさが違います。技術の先生にモニターの報告をしましたら『それはイカン。イカンぞ、絶対イカン』と。23cmの右と24cmの左を売ったら絶対片一方が残るやろ、それでいろいろやってたらいくらでも片方が残るやろ、といわれました。その積み重ねで会社が倒産するんだと。私もそのとおりだと思いましたが、困っている人がいました。」
「『これはやらないかん』と思いました。先生がなにをいおうとやらないかんと。先生にそういいましたら『あんたの会社やから好きにしたらいい。わしは知らん』と言われました。「先生のせいにはしませんから」と、右左サイズ違いの靴を作ることにしたんです。」
「右と左のサイズ違い一式は、ニーズとして顕在化していました。しかし、片方だけほしい、ということは誰も言われませんでした。でも、それは潜在的なニーズだと。潜在的なニーズを発見し、それに到達したときに人は感動します。『そこまでしてくれるんですか』といわれます。もうやるしかないでしょう。」

―左右サイズ違いで靴を販売する決断をし、着実に実行し成果を出してていった十河会長。

「高松市に知り合いの弁理士さんがいたんですが、『社長えらいことやるんですな』と。『右左サイズ違い販売、片方だけ販売は調べても日本全国1万2000社どこもやっていない。ビジネスモデルの特許をとりなさい』といわれました。他社が後から参入してきてもビジネスモデルの特許があればそのモデルは使えないから、徳武産業は長い間ええ目をみると。でも私は、できることなら業界としてつくりたい、業界では非常識だった右左サイズ違い・片方販売を業界としてやりたいと思っていましたので、『特許はとりません』と先生にそう伝えますと、『欲がないな』とおっしゃいました。そのとき私は、徳武産業だけの利益、利己的な利益ではなくて、利他的な利益、損得の判断ではなくて善悪の判断をしたかったんだと思います。」
「失敗もあります。あゆみの開発時、前年度から30パーセントを落としました。会社は暗い雰囲気になります。銀行に決算書を持っていきました。何とかなりますかといわれ、頑張りますと応えました。お金を貸してくださいとお願いしましたら、運転資金だけですよとかしてもらい、その後3ヶ月してまたお願いしに行きましたら、ダメですと。稟議が通りませんと。徳武産業の3本の矢が折れかけてるんでしょ、あゆみシューズも売れてないんでしょうと。お客さんが見つかっているですか、といわれました。他所に当たってくださいと。お金を貸してもらえないことがこんなに辛いことかと。なんとか会社をつないでいかないかんという思いで続けてきました。取引先をまわりまして、現金決済を手形決済にするようお願いしまして、首の皮一枚のところで繋がりました。必死の思いで、寝る時間を惜しんで頑張ったおかげでなんとか会社を持ち直したんですが、会社の3本の矢の管理をできていなかったということが情けなかった。40%を1社に依存していたことも反省しました。会社が倒産し掛けているところでした。でも、あれより激しくなかったら反省していなかっただろうと思います。絶妙なタイミングだったんです。それが、いまの徳武産業をつくってくれたんだと神様に感謝しています。これまでの取引先も、鬼の面をかぶっていたかもしれませんが、神様だったかもしれない。辛い思い、悲惨な思いをしましたが、その人が神様だったかもしれないと振り返りますと、出会うべきときに出会うんだなと、人生に無駄はないんだなと感じました。心の折れそうなときは何度もありましたがあきらめませんでした。」

―「あゆみシューズ」の開発から流通までさまざまな工夫と努力をされてきた十河会長。お客様とのかかわりのなかで、多くの気づきもありました。

「7、8年前の話ですが、東京の営業所に遠方の施設からクレームが来ました。『徳武産業は歩けもしない人に靴を売るのか!』と。それしませんといいましたら、その施設には3年も歩いていない方がいらっしゃって、でも靴を買っている。徳武産業の靴やと。私と社員とでその施設にうかがったときに、靴を買った方は車椅子に乗っておられました。施設の方から『売りつけたやろ』といわれました。違うといっても聞いてくれませんから、おばあさんのところへいきまして、『歩けないんでしょう?』とお聞きしますと『そうや、歩けない。もう3年くらい歩いていない』と。『なんで靴がいるんですか?』と聞きますと『実は施設にわたしと同じ年、90歳くらいのひとが気持ち良さそうにあるいとる。気になってな、ずっと気にしてみていたら足にピンクの靴を履いとんや。あまりに気持ち良さそうに歩いとるから、最近になって歩けたらいいなと思うようになったんや。夢に靴が出てきて、《おばあさん歩こうよ、きっと歩けるよ》と靴が語りかけてくれたんや』とおっしゃいました。それで右と左のサイズが違う靴を届けてもらったと。私は歩けるようになればいいですね、お祈りしていますよといいまして、その日は帰りました。
それから、そのことをほとんどわすれていたのですが、7ヶ月から8ヶ月くらいたったころに施設の人から電話があって、『奇跡が起こったんです。医者も立ち上がることができないといったあのおばあさんが立ち上がったんです、シルバー・カーにつかまってですが歩いているんです、見に来てください』とのことでした。大急ぎで施設に行きました。行きますと、おばあさんが、1cm、2cmくらいしかすすみませんが、歩いていました。私の顔を見つけますと満面の笑顔で『あんたええ靴つくってくれてありがとうな、おかげでこうやって歩けるようになった、ほんまに歩くのはええよ、最高やわ。友達とお話したいなと思ったときに、今まではベッドからおろしてもらって車椅子に乗せてもらっていってたけど、気の向いたときにあゆみの靴を履いて歩いていっておしゃべりして帰る、ええよ。トイレもな自分でいけるんよ。桜の花が咲いとったら、咲いているところへそのときにいける。なんて歩くっていいことなんやろな』とおっしゃいました。
そういう方にお会いするなかで、こういう方をもっと増やしていかないけないなと心から思いました。本当に、私たちの心の泉になっています。施設のなかで、歩くことをどれだけ切望しているかなと思ったとき、友達としゃべったり、トイレに行ったり、花を見に行ったりするときに、歩けるということがいかに大切かということをしみじみと学ぶことができました。」


―「あゆみシューズ」を開発し、毎年利益を出しつづけ、会社を成長させ続けてきた十河会長。そのベースには、経営指針書の作成と社員との共有があります。

「わたしは、同友会のなかで、すばらしい先輩とライバルをいただき、また経営指針書を作ることができました。経営指針書を全社員に配布しています。10年ちょっとまえに、うちの会社に或る銀行の支店長が熱心にたずねてきました。是非取引して欲しいと。なんで徳武産業は急成長しているんですか、ずっと右肩上がりで、と。私は『運とつきですかね』といいながら、『強いて言ったら経営指針書ですかね』といいまして、中短期経営計画書といいますが、それをお見せしたら、『素晴らしいですね、借りて帰っていいですか』と。10日あまりして、連絡がありまして、『銀行員30年以上やっていても田舎の中小企業がこんだけしっかりしたものをつくっていることが驚きです。うちの銀行はお宅と真剣に取引したい』と話がありました。本部の役員にも指針書をみせて役員と相談してそうしたいと。石橋をたたいてもわたらないような銀行です。そこが是非お使いくださいと。冗談でしょうといいましたが、銀行は徳武産業にほれたんですと。これまで取引していた金融機関とも相談しまして、あの銀行がそこまで言ってくれて、仲間に入っていただくのは良いことだからということで、その話にのりまして、いまだに友好な関係が続いています。」
「指針書があったからこそで、自分たちの考えていること、今までやってきたすべてがここにあります。銀行では稟議をおこなっていますが、稟議にだすときに指針書さえあれば何ぼでも書けるというんですね。あと試算書と決算書をつけることで十分なものができると。これを1年に1回、丸1日つかって発表会をしています。銀行の支店長と担当者に来てもらって、5行と取引していますが、去年を振り返り、そして今年、全社員が自分の意見を述べてくれています。それを見ただけでも実にうれしいものです。」


―経営指針書に基づく経営を徹底しながら、社員の皆さんの物心両面の幸せを追求されています。

「社員は会社の宝だと思っています。そのために、経営者としてやれることは最大限やっています。その1つに、全社員70数名います、ボーナスを年2回だしていますが、現金で手渡ししています。厚さと重さを知ってもらうために出しています。また、社員一人ひとりに、私が10~15行くらいメッセージを書いて渡しています。1回のボーナスに、20時間を越えるくらい、社員と向き合っています。」
「社員数が増えたのはなぜか考えますと、社員が身内、家族を会社に紹介してくれています。社員が、私の妹が徳武で働きたいとと言ってきます。『あんたの妹やったらいいんちゃうん』と入ってもらっています。私の旦那に会社の話をしたら入りたい、孫が会社に入りたいという話しもありました。また、ライバル会社を引退した方が入ってきます。いい意味で、会社を理解してもらい、客観的な見方をしても働きたいとおっしゃいっていただいていますので、感謝しています。離職率は、5年間に1人か2人しか辞めていません。障害者雇用もやっています。」

ご報告をうけ、グループ討論では「社員が誇りをもって働ける会社とは?」をテーマに、活発な議論が交わされました。

多くの感動・学びを与えてくださいました十河会長には改めて御礼申し上げます。