滋賀県中小企業家同友会

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立命館大学経済学部キャリアデザイン講義第11講~地域に愛されて150年余の老舗和菓子店の経営~

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滋賀県中小企業家同友会と立命館大学経済学部との協力協定に基づいて大津市、草津市とも連携してスタートした同学部1回生対象の「キャリアデザイン」講義第11講が12月7日(水)16:20~17:50まで立命館大学びわこ・くさつキャンパスで開催され、滋賀県中小企業家同友会会員の(株)和た与 代表取締役 小川 与志和さんより、概要以下の通り講演していただきました。

和た与の創業は文久三年(1863年)、幕末で新撰組が暴れていた時代です。砂糖問屋に奉公していた初代の小川与惣松が暖簾分けされて、153年前に近江八幡で店を開いたのが始まりです。
名物は「でっち羊羹(ようかん)」で、毎日朝4時から1,000本作っています。羊羹の羊を「羊」と書くのは、昔は羊の肉を固めたものを羊羹と呼んでいたからです。ういろ餅も名物ですが、それは元々、咳の薬でした。苦い薬の付け合わせとして食べたのが、ういろ餅の始まりです。
江戸時代には10歳くらいの子供が、貧しさゆえの口減らしで仕事に出され、住み込みで給料なし、三食と衣服だけを支給されて働いていました。そういう小僧さんが主人から小遣いをもらって土産に買って帰ったのがでっち羊羹です。そういう歴史を知って、味わって欲しい。それが勉強です。知識のある人とない人では、同じ風景を見ても違って見えるものです。

私は商売屋の子に生れました。小学校1年生の時、死の床にあったお爺さんから病床の枕元へ呼ばれ「店を手伝ってくれ」と言われたのです。この言葉が、自分の進路を決める上で大きな力になりました。
高校進学の時には、中学の担任からは進学校に進むことを薦められましたが、家を手伝うことと、野球がしたかったので八幡商業高校へ進みました。後継者の多くは卒業して他の店で修行をしたり製菓学校で勉強するのですが、私はすぐに家業に入りました。
家の技術は朝起きて夕方まで家で仕事をして親父に習い、夕方から12時まで近江八幡駅前のハンバーガー店でマネージャーワークをして経営を学びました。19歳からハンバーガー店を任されていましたので、夜10時に閉店してお金を精算して戸締まりして帰る生活を3年間続けました。キツかったのは60人のアルバイトさんの希望を聞いてシフトを組むことでした。面識のない昼間勤務の人とコミュニケーションをとるために、家業が休みの時に無休で昼間働きに行きました。このマネージャーワークでは「リーダーは常に全軍の先頭に立つ」と言うことを教えられ、その後の自分の基本姿勢になっています。
3年間休みなしでしたから、ハンバーガー店を辞めた時には結構なお金が貯まっていました。そこで株式投資に手を出しましたが、急な円高不況で株価が下がり元本割れ。痛かったのですが、これも勉強になりました。

株はダメでしたが家業は順調で、28歳の時に高校時代の同級生と結構。3人の子宝に恵まれました。
順風満帆な日々が反転したのは、平成13年8月31日の未明です。漏電による火災が起き、私が火元の確認で家族と離れた30秒間の間に、寝室は火の海となりました。私も目をやられ煙を吸って病院家担ぎ込まれました。救急車へ乗る前に火柱のあがっている店を見て、現実のことが全く解らず呆然としておりました。
朝6時に消防員の友人の助言をもらい、現場に帰って義理の祖父から「与志和さんだけでも助かって良かった」と言われたとき、妻と子供が助からなかったことを思い知らされました。
葬儀は何とか勤めましたが、目をやられ煙を吸った関係からか、五感が戻りません。親父が親戚を集めて火事場のあとを整理し「店を始める」と言っているのを聞き、自分も「何とかせなあかん」と。自己資金だけでは再建できないので、火災保険の申請を試みますが、何と保険会社が経営破綻し、保険料の納付が出来ていなかったので、全額出ませんでした。そんな時に、銀行さんは店の看板で1億円融資してくれると言ってくれました。この時、歴史と信用の大切さを実感しました。
類焼していていた隣家は、相場の倍の金額で買わせていただきました。ご迷惑をおかけした方には相応のお詫びをする。これが商道徳だと思っています。
火災から7ヶ月後、3月12日に再建を決めて動き始め、店舗は順調に出来上がりましたが、心の準備が出来ませんでした。そんな私を励まし、あとを押してくれたのは、火災のニュースを見た全国のお客様からの励ましの手紙でした。お顔も見たことがないようなお客様が、こんなにも再建を望んでいらっしゃること、中には名前も書かないでお金を送って下さった方もいらっしゃいました。
多くの皆さんの応援を受けて、再建してわずか1年で10年返済予定の借入金を完済することが出来ました。それは、代々受け継いできた商売の歴史と看板があったからこそです。
店を再建したら、仕事以外にやりたいことがありました。それは、小さな子供さんを亡くされたご家族をお悔やみし、自分の経験をお話しして何らかお力になることです。東日本大震災の時にもお話に伺いました。

株はダメでしたが家業は順調で、28歳の時に高校時代の同級生と結構。3人の子宝に恵まれました。
順風満帆な日々が反転したのは、平成13年8月31日の未明です。漏電による火災が起き、私が火元の確認で家族と離れた30秒間の間に、寝室は火の海となりました。私も目をやられ煙を吸って病院家担ぎ込まれました。救急車へ乗る前に火柱のあがっている店を見て、現実のことが全く解らず呆然としておりました。
朝6時に消防員の友人の助言をもらい、現場に帰って義理の祖父から「与志和さんだけでも助かって良かった」と言われたとき、妻と子供が助からなかったことを思い知らされました。
葬儀は何とか勤めましたが、目をやられ煙を吸った関係からか、五感が戻りません。親父が親戚を集めて火事場のあとを整理し「店を始める」と言っているのを聞き、自分も「何とかせなあかん」と。自己資金だけでは再建できないので、火災保険の申請を試みますが、何と保険会社が経営破綻し、保険料の納付が出来ていなかったので、全額出ませんでした。そんな時に、銀行さんは店の看板で1億円融資してくれると言ってくれました。この時、歴史と信用の大切さを実感しました。
類焼していていた隣家は、相場の倍の金額で買わせていただきました。ご迷惑をおかけした方には相応のお詫びをする。これが商道徳だと思っています。
火災から7ヶ月後、3月12日に再建を決めて動き始め、店舗は順調に出来上がりましたが、心の準備が出来ませんでした。そんな私を励まし、あとを押してくれたのは、火災のニュースを見た全国のお客様からの励ましの手紙でした。お顔も見たことがないようなお客様が、こんなにも再建を望んでいらっしゃること、中には名前も書かないでお金を送って下さった方もいらっしゃいました。
多くの皆さんの応援を受けて、再建してわずか1年で10年返済予定の借入金を完済することが出来ました。それは、代々受け継いできた商売の歴史と看板があったからこそです。
店を再建したら、仕事以外にやりたいことがありました。それは、小さな子供さんを亡くされたご家族をお悔やみし、自分の経験をお話しして何らかお力になることです。東日本大震災の時にもお話に伺いました。