滋賀県中小企業家同友会

委員会活動について-共育委員会-

2022年度 立命館大学経済学部「キャリアデザイン」講義第9講で井之口哲也さん(栗東総合産業㈱常務取締役)が

共育・求人委員会 その他活動

滋賀県中小企業家同友会と立命館大学経済学部との協力協定に基づいてスタートした同学部2回生対象の「キャリアデザイン講義」(担当:共育・求人委員会)第9講が11月24日(木)16:20~17:50、立命館大学で開講され、栗東総合産業株式会社常務取締役の井之口哲也さんよりご講義をいただきました。
テーマは「中小企業が海外を目指す理由とは?」です。
 栗東総合産業株式会社は60年前、京都の市場(いちば)で物を運ぶ事業から始まりました。当時、トラックを所有している事業者が少なかったため、栗東町から廃棄物処理の仕事を頼まれたことがきっかけで、栗東市の一般廃棄物処理の事業を主とした事業をしています。
井之口哲也さんは会社を継ぐつもりはなかったのですが、大学生のとき、会社が展開していたベトナムでの事業を手伝うよう父である社長から言われ、なにもわからぬまま大学を休学し、1年間ベトナムへ行きました。
当時はベトナム投資のブームで、多くの企業がベトナムに進出していた時代です。井之口さんは、ベトナムの会社で物販の仕事に携わります。ベトナムの市場をめぐりビジネスになりそうな物品を探しまわる日々。せっかく仕入れた材木が日本の市場環境の変化により出荷できなくなったこともありました。そんな井之口さんを支えたのが、現地スタッフとその家族でした。いろいろお世話になり、井之口さんが日本に帰るとき、「ベトナムに戻ってきてビジネスをやります」と言って、日本に戻ってきました。
大学卒業後は、地元の事業向け清掃器具リースの会社に就職。結婚することになり実家に報告に行った折、父から「そんなことはどうでもいい。うちの家業の事はどうおもってるんや」と言われます。井之口さんは3人兄弟なのですぐが、次男は既に家を出ていて、三男は他の業界で就職していました。井之口さんは祖父がつくった会社で、子どものころから父が休みなく働いている姿を見ていましたので、誰かが継がないといけない、このまま終わらせたらいけないなと思っていた折でしたので、渋々ながらも、栗東総合産業に入社しました。

栗東総合産業株式会社は、1999年に貿易会社を立ち上げ、2000年にベトナムに事務所をつくり取引を始めていました。会社は栗東市から仕事をもらい、比較的安定していたのですが、売上の8割9割が栗東市からの仕事に依存しており、何かあって、行政からの仕事が途絶えると会社が存続できない、というリスクを抱えていたのです。栗東市以外の仕事でしっかりした事業の柱を持ってなければならないと新規事業を始めました。しかし、まだ日本人が事業をする環境が整っていなかった時代ですので、トラブルに巻き込まれ、撤退することになりました。
井之口さんは2008年に入社し2010年に取締役に就任します。その時に、もう一度、海外展開をする決意をします。というのも、日本は少子高齢化社会であり、労働力人口が大きく減少することが各種統計でわかっていました。日本での事業では体を使う仕事で日本で働き手を確保することが難しく、また技能実習生の受け入れができない業種でしたので、ベトナムで人材確保をする必要がありました。また、日本市場のマーケットが縮退するなかで、従業員の生活を守るためにどこでお金を稼ぐかと考えたとき、東京か海外か、ということになるのですが、海外に展開したほうが長期的な見通しが立つということで、海外事業を始めることにしました。
井之口さんは栗東市に人事交流できていた中国の方とお知り合いになり、人脈を伝って中国の会社と繋がることが出来ました。自社商品を販売しようと、その会社の代表と面会した時、なぜかその代表は不機嫌になり、話が進みませんでした。事情を聴いてみると、井之口さんは常務取締役でしたが、相手は代表取締役で、代表がわざわざ出てきているのになんで取締役と話をしないといけないのか、ということだったそうです。
周りは小うるさい人だから関わらないほうがいいよ、とアドバイスしましたが、井之口さんはなんとしても取引をしたいと思い、わからないままに電子辞書でしらべて書いた中国語のメールを1週間に一度、送りつづけました。3か月ほどたったころ、メールの返信がありました。「お前の中国語はへたくそすぎる、何が言いたいのかわからん。でもお前がいい奴だということはわかった、とりあえず北京に来い」という内容でした。それを転機に、中国でマーケティングを始めることが出来ました。突然、中国の各地に呼び出されるなど振り回されましたが、商品の説明の場で日本人が立ち会っているかどうかで信頼度が違うということがわかりました。そして、中国国内大手の自動車メーカーのオプション商品として販売してもらえることになりました。
中国に進出はしたものの、経済成長により人件費はすでに高騰しつつあったので、次に東南アジアに目を向け、ミャンマーに水処理パッケージを普及しようと進出しました。ところが、捨てるものにお金をつかう文化がなかったため、事業ベースに乗らず撤退することに。ミャンマーに行った帰りにベトナムに立ち寄ったところ、学生時代の様子とは違い都会になっていました。お世話になった人たちと会い、昔話をして帰るときに、ベトナムのお姉さんから「あなた、ベトナムで一緒に仕事をしますから、待っていてくださいね、と言いましたよね。本当にベトナムでビジネスをするなら私たち手伝います」と声をかけられました。


協力してくれている人がいる、ということは強みだということで、ベトナムに進出しようと決意し、環境、とくに水処理の事業ができないものかと考え、事業を始めます。リゾート地でマーケティングをはじめ、コーディネーターからも話をしながら回っていると、現地に住む日本人の方と出会います。ホイアンという世界遺産のある街ですが、江戸時代ころに日本人が住んでいたところでした。世界遺産にもかかわらず、現地の人たちがごみを捨てるので、臭いがたち水も汚い状態でした。その日本人の方は「現地の人たちは悪気があってそうしているわけではない、きれいにする方法がわからないからだ」ということで、ごみ回収のボランティアをしたり、水浄化システムをつくるなど活動をされていました。それから、井之口さんは水処理キットをその方に送るなど支援をするようになります。また、現地の中学校で環境保全の授業をするなど活動します。
ところが、環境の事業は聞こえはいいものの、捨てるものにどれだけお金をかけられるか、という要素があり、ビジネスとしては難しく、当面の資金獲得のために釣具屋のチェーン店を開業します。その傍ら、水産業に詳しい大学教授と出会います。ベトナムでは水産業が盛んで、昔はエビの養殖に力をいれていましたが、単価に合わなくなり、今ではパンガシウスという白身魚に注力していますが、水質が悪いと白身が臭くなるという難点がありました。それで、井之口さんは遠心分離装置などで協力するようになります。実証試験も間近、というころになり、新型コロナウイルス感染症が世界中で蔓延するようになり、計画も中止に。井之口さんはもうこの事業はなくなるだろうなと思っていましたが、大学教授が2年間、ベトナムで井之口さんの事業を売り込んでいてくれました。そのおかげで、水処理実証実験を再開でき、現地に会社を設立するめどを立てることが出来ました。

井之口さんは、これまでの経験を振り返り、「海外進出はいろいろイメージはあると思いますが、やってることはすごい地道です。その中でも、いろんな人と出会い、なんとか商売をさせてもらっていることを実感しています。一つの出会いが自分の運命を変えてくれたという経験をしました。一期一会、人との出会いや繋がりを大事にして、自分たちの人生をより良いものにしてもらいたいです。」と、学生へのメッセージを送りました。